M-Designの独り言  (宝塚、エムデザイン一級建築士事務所のブログ)

宝塚の建築設計事務所 所長の日々考えること、感じたことを綴ったブログです

感動したブログ記事

型紙、型染を検索し、新たな世界なので、端からブログを読んでいる。
そして和柄にたどり着いた。そして着物の危機的な状況、型紙産業の斜陽化を知る。残るのはインクジェットによる染色、あるいは古着の再利用、ごく一握りの特注着物。オートクチュールであったはずの、着物産業が
衰退の一途をたどっているのは、避けられないのか。

感動したブログはそのなかにあった。
そのまま転載するけれど、ブログの記事のそのままの転載は許されるのだろか???


ここに一枚の振袖の写真がある。以前、京都市美術館で開催された宮崎友禅斎記念回顧展を観に行って、買い求めた名品図録の中の一枚だ。 
江戸、明治、の豪華な友禅染めの名品が沢山展示されている中で、どちらかと言うと地味で目立たない一風変わったこの振袖。 
全体はグレーの地色で、特に上前だけ見るとグレー地に白線と白砂子散らしだけの実にシンプルで地味な柄。しかし、下前には雪持ちの菊に小鳥を友禅と刺繍で表した大変手の込んだ柄が付いている。 
もちろん下前に柄と言うことは、着れば柄は中に隠れてしまう。 
実は、私は当日会場で数ある作品のある中でこの振袖を見て、最も感動して、しばらくその場を動けなかったのを覚えている。 
では、私はこの振袖のどこ惹かれたのか?・・・・・ 
その前に、この振袖にはこんな解説が書かれていたので以下に紹介する。(原文) 

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「上前の文様は氷割れに粉雪だけで、地色も鼠という極めて地味な振袖であるが、下前には雪をかぶった菊と雪上の小鳥一羽を友禅で表している。裾引きでもアンバランスであり、裾を合わせればせっかくの色彩のある文様は隠れてしまうから、どういう意図で、こうした意匠が生まれたのか、大変興味のある1領である。下前にのみ文様を置いた小袖の例は他にもあるので、これが例外とは言えないが、その意図をご存知の方がおられたらお教え頂きたいと思っている。」  
 

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解説者には理解できなかったようなのだが、私にはその意図は容易に推察できる。 
一言で言えば「江戸時代の贅沢禁止令がこの振袖を生み出した」と言って間違いないだろう。 
これは私のつたない知識の範囲内で考察した結果、導き出した答えなので、いささか独断的ではあるかもしれないが・・・・ 
 
そこで、まずは少し歴史のおさらい。 
 
江戸時代、幕府は何度も「贅沢禁止令」を出している。 
主に町人の衣服に関する贅沢が対象だった。それだけ、幕府がお触れを出すほど町人が豊かになって、贅沢を楽しんでいたことがうかがえる。 
その衣装道楽は町人だけでなく武家社会にまで広まっていた。その道楽に応えるための絹をはじめとする衣装産業の発展は江戸時代の産業を考える場合に見過ごすことができないだろう。 

そして、吉宗はさらに厳しい贅沢禁止令を出した。享保6年4月と5月の規制では、従来も見られた雛道具や破魔弓、羽子板などの取締りに限られていたが、7月の規制では、器物、織物などの新製品の政策をすべて禁止し、書籍や草紙なども奉行所の許可を得なければ出版してはならないとした。さらに京都や大阪、その他所々から新製品が送られてきた場合は、少量であっても奉行所へ報告し、指図を受けることとしている。翌閏7月には、諸道具、書籍の他、諸商売物、新製品を作ることを禁止し、どうしても作らなくてはならない場合には、役所の許可を受けなければならなかった。 
 
さらに、享保年間といえば、江戸時代の3大飢饉のひとつ享保大飢饉(享保17)が起こっている。そのときの餓死者は日本各地で農民を中心に実に96万9,900人の多数に及んだ(『徳川実記』)。 
このことは皮肉なことに当時の階級制度の建前(士、農、工、商)が実質(士、商、工、農)になってしまったことに拍車をかけた。 
 
話は戻るが、この振袖は当時の金満商人が贅沢禁止例に反発して、作らせた一枚なのは間違いない。一見、お上のご意向に添っているかのように見せて、その実、「反発している」という「庶民の心意気」の現れなのだ。
そしてこの振袖に代表されるように隠れたところや小さな物に贅と美を凝る、そんな日本人特有の粋の文化が育ったのは、皮肉なことにこの時代から始まった。まさにこれは贅沢禁止令の副産物と言えよう。 
 
余談だが、当時生まれた代表的な染物に江戸小紋がある。 
遠くから見ると無地、近付くと模様が見えるような総サメ小紋染め。 
柄が細かいほど染めるのが難しく、粋で高価な着物。 
一つ紋にすればあらたまった席にも着ていける。 
これも、今なお受け継がれる贅沢禁止令が生み出した染物のひとつ。 
 
そして当時、男性が羽裏や襦袢に凝るのも粋とされた。これも又見えないお洒落。 
 
その他、「根付」等の小さな物の芸術性も贅沢禁止令が高めたと言えるだろう。 
 
「見えないところにお洒落をする。」 
「隠れたところに贅を施す」 
これは、究極の自己満足かもしれない。 
 
でも、当時も中にはそれをあえてひけらかす者もいた。 
当然そのような者は「野暮」と言われ笑われた。 
 
一見、見逃してしまいそうなところにさりげなく贅を凝らすのは、言葉を変えれば、「見せるお洒落」ではなく「見つかるお洒落」だったとも言える。 
 
当時の粋な人々はそんなお洒落ができると同時に、そんな他人のお洒落を見逃さず誉めるということもできた。これは江戸の粋な人達の人間関係を円滑にするための重要な要素だったのだろう。そして、そんな粋な人たちは別名『通』(つう)とも呼ばれた。 
今で言えばファッションリーダー。 
職人は『通好み』を目指し、ひたすら自らの技を磨き、一般庶民は『通』を目指した。 
 
さて、この振袖をよく見てみると実に計算され尽くした意匠であることが解る。実はこの振袖にも「見つかるお洒落」の要素を取り入れてあるのだ。 
 
この振袖は、着ると右後ろ身頃から右脇裾にかけて、わずかに下前の柄の一部が見えるようになっている。すなわち、通が見れば下前に豪華な友禅や刺繍が施して隠してあることは容易に想像できるのである。 
まさに、見る人の想像力までも利用した心憎い「通好み」の振袖といえる。見せないためにお洒落する。 
一見矛盾するこの美意識は、今でも無くしたくない日本人の感性のひとつ。 
それは「品」「色気」「粋」に通じ、やはり着物に集約される。 
そして、突き詰めれば「心の美しさ、心の贅沢さ」に行き着く。
(京都デザインファクトリー社長ブログ)

見せないためにお洒落する。
素敵な言葉だ。
昔、綿の表地、絹の裏地、これが建築の粋だよといった人がいた。
直接的に表現することばかりに、心が奪われて、思考するすることや思惟することを忘れた日常に、ある種の刺激を与えることが建築の1つの役目だとすれば、なにか1つのきっかけを与えてくれそうな言葉なのである。
通か、茶道かもしれないなあ。

赤坂でマンションのデザインの提案をすることになりそうだ。
これが、1つのキーになりそうだ。